Home » 日本アジア航空の機内誌の巻頭エッセー「ママはいつも旅行中!」
1998年9月30日

  1. 娘の地球一人旅 トレーニングは英国で(1997年5月号)
  2. ヘミングウェイに魅せられて(1997年8月号)
  3. 空港に泊めてもらった話(1997年12月号)
  4. トラベルデザイナーの仕事(1998年3月号)
  5. 方向音痴の人が地球ひとり旅を楽しむ(1998年6月号)
  6. モンゴルでエクレアを盗られた(1998年9月号)


娘の地球ひとり旅トレーニングは英国で


 その年の春、仕事の拠点として借りていた東京のマンションを引き払うことにした。娘が巣立つなら、私も人生後半生に向けて、充電の旅に出かけよう、と思ったからだ。

 娘は京都の四年制の大学に合格した。彼女は七才のときにリユックを背負わせてヨーロッパ五十日の旅を皮切りに、その後も、ニユーヨーク、パリ、香港、台湾、韓国などを連れて旅してきた。旅の記事執筆やツアーの企画が仕事である私の場合、地球子連れ旅がスキンシップの機会、つまり子育ての場だったと言える。その子育ても一段落らしい。
 私は英国をめざすことにした。日本の十五年先を歩んでいる英国で障害者・高齢者の旅立ちがどのように支援されているか学びたいと思ったのだ。といっても資産家ではないし、英国を拠点に、その年自分が企画した三本のヨーロッパツアーに同行し、報酬を稼ぎながら暮らす段取りにした。

 英国の拠点はロンドンではなく、海辺の村を選んだ。日本では八ヶ岳南麓標高千メートルの山間部に住んでいるから、海の近くに住みたかった。友人の手引きで、ロンドンから鉄道で東に一時間、北海の近くの村、ウィヴェンホーで貸家を探した。暖炉付きの家が希望だったが、短期滞在者でも良いという出物は見つからなかった。結局、離婚歴のある同世代の女性で大学教授と契約を結んだ。借りた家は道に面した二階建ての続き長屋で、一階のドアをあけると、八畳のリビング、六畳のキッチン、その奥にトイレとバスタブ、そして、ドアをあけるとコンクリートで固められた洗濯物干し場。二階にあがると、四畳半の書斎と表の道側に八畳のベツドルーム。一人暮らしには十分だった。

 家具付き家賃が水道光熱費を含んで八万円、も気に入った。というのも、八ヶ岳の南麓の家も、私の留守中、仕事部屋以外の一階部分を友人に貸すことにして、家賃は一ヶ月八万円に決めたからだ。偶然にも英国の家賃と日本の家を貸す家賃が同じだった。この方法でいけば、老後も、この地球上いろいろな町で暮らせるかも、と嬉しくなってしまった。

 夏の終わり。娘を日本から呼んだ。ママが英国に住んでいるうちに、ひとり旅でいらっしゃい。空港まで迎えに行くし、宿代と食費はただでいいよ。

九月一日、忘れもしない。この日ダイアナ元皇太子妃がパリで激突死を遂げ、その遺体がロンドンに帰ってくる日だった。娘を迎えに行く前に、ダイアナ妃の住まいだったケンジントンパレスに足を延ばした。花でケンジントンパレスの前側は埋め尽くされていた。タクシーの運転手が信号が止まったとき、窓をあけて警備の警官を呼び止め、助手席に置いた花束を供えてくれるよう託していた姿が印象的だった。娘が着く時刻ギリギリまで、そこにいてヒースロー空港に向かった。

 娘は、怖がる風でもなく、晴れやかな表情でジーンズ姿でリユックを担いで姿を現した。私を見つけて駆け寄ってきた。その日からして母娘水入らずの英国暮らしが始まった。二階の寝室のダブルベッドに二人で眠ったし、度々、隣町のテスコというスーパーまでデイパックを背負い、川沿いの小道を一時間歩いて買い物に出掛けた。途中、犬を散歩させる人、ジョギングする人、自転車を漕ぐ人、赤ちゃんの乳母車を押す人たちとすれちがうとアイサツをかわした。土の小道で、車いすでも歩ける。こんな車の通らない隣町まで行けるよう魅力的な土の小道が日本にあっただろうか。ウィヴエンホーは入り江に続く川沿いの村なので、潮がひいたり満ちたり。潮が満ちると、川をヨットや船が上がっていく、川向こうの村に行くのに橋がない。英国人はあえて橋を作らないのだという。潮の干満にあわせて、渡し船があって、対岸のパブに行くには、その渡し船に乗っていき、潮が引く前に戻らなければならないのだ。

 娘は日帰りで、ロンドンに私と一緒に行きたがったが、私もツアー企画の仕事を抱えていたから、「自分一人で行ってごらんよ」と突き放した。娘はまず、ウィヴェンホーの駅前からローカルバスに乗って、隣町のコルチェスターまで、おそるおそる一人で出かけていった。「帰りのバスに間違いなく乗って帰るために、自分の降りる駅名を大きく字で書いて行きなさいよ」「WIVENHOE」を見せて、バスの運転手がウンとうなずけば乗ればいいし、首を横に振ったら乗っちゃダメよ」

 数時間して、娘は上機嫌で帰ってきた。「思ったより簡単だった。けっこうコルチェスターの町歩いちゃってさ」。
 数日後、いよいよロンドンへ一人旅したい、言い出した。一人旅に自信がついたらしい。「いいぞ!いいぞ!」。朝七時起きで、駅まで歩いて送っていった。ロンドンの地下鉄乗り放題パスと、ウィヴェンホー・ロンドン間の往復切符のついた一日パスを窓口で買い、帰りの列車の時刻を係員に確認すると、夕方ロンドン発六時過ぎのがあるという。ホームまで送った。彼女のお目当ては、ロンドンの蚤の市を巡ることらしい。「帰りの電車が決まったらリバプールストリート駅から電話しなさいよ! 公衆電話のかけ方は教えたよね。油断したらダメよ。スリに気を付けてね。」その日娘が帰ってきたのは午後七時過ぎ、真っ暗な駅に降り立った。駅員も、改札口もない小さな駅で迎えた。「どうだった?」「すごーくおもしろかった。ママの好きそうな、古着の店があったよ。」

 こうして、十八才の娘は、地球一人旅のトレーニングを英国で少しずつ重ねて自信を深め、昨年秋、とうとう念願だったギリシアへ一人旅をやってのけた。
 誰でも、はじめから、地球一人旅をしようと思えば気後れするが、数時間の一人旅から、日帰りの旅へとだんだん距離を延ばしていけば、地球一周だって決して難しくはない。



ヘミングウェイに魅せられて


ヘミングウェイが好きです。
生涯に才色兼備な4人の女性と結婚し、闘牛と海釣り、狩猟に魅せられ地球を縦横無尽に旅してまわった好奇心旺盛なアメリカ人ジャーナリストでベストセラー作家。彼の生き方が素敵です。

年間6本ほど、身体に様々な障害を持つ人々の海外ツアーを企画し同行する私のひそかな楽しみは、あこがれのヘミングウェイの生き、旅した足跡をツアーコースに盛り込み企画すること。旅先で盲導犬連れや車いすの人などを誘導しながら、実はヘミングウェイが眺めた風景と同じ場所に身を置いて、うっとりしていたり。

地球上におけるヘミングウェイのゆかりの地ベスト4というと、パリと北スペインのパンプローナ、アメリカのフロリダ半島の突端の島キーウエスト、それにアイダホ州のケチャムという小さな村ということになります。ベスト5となれば、キューバのハバナが加わるでしょうか。今までに私、はじめの4つまでは訪れてきました。

先日、股関の不自由な人々のツアーを企画・同行してハワイに1週間行った折、フリータイムに別行動して、マウイ島のハレアカラ火山(3055メートル)の頂上近くから、海までマンテンバイクに乗って、38マイル(60、8キロ)の山下りをしました。そのときの参加者は8名、ほとんどがアメリカ人でした。その中に結婚して10年というアメリカ人カップルがいて、どこから来たか尋ねたら、「アイダホのボイジ」と言うではありませんか。なつかしい!

ボイジは、ヘミングウェイ終焉の地、ケチャムに入るためのゲートウェイにあたります。とにかく行けば何とかなる。現地で情報をとろう、とその日ボイジ入りして、ボイジのホテルのフロントで尋ねると、ケチャムまではサンヴァレーエキスプレスという会社がバンを運行しているというので、早速翌日それに乗り込むことにしました。ケチャムまで2時間余り。

ヘミングウェイがこの村に移り住む前に泊まり、作品を書いた古いバンガロウに落ち着くことができました。ヘミングウェイの泊まった7号室に滞在したいというと、案内されたログハウス。ドアを入ると右正面に大きな石造りの暖炉があって、その上にセピア色に変わったヘミングウェイの写真が飾られていました。ヘミングウェイはいつも帽子をここに置いていたとコメントが付けられていました。薪が準備してあって、その夜は、パチパチと薪を燃やしながら、あれほど華々しい人生を歩んできたヘミングウェイがなぜこんな山村にやってきたのか、を考えました。
ケチャムの隣には、一大リゾート、サンヴァレーがあります。高級な別荘がいっぱい建っていました。この中心にサンヴアレーロッジという高級ホテルがあって、1939年秋、3番目の妻となるマーサを連れて、この206号室に滞在したそうです。

そして、45歳の頃、彼はケチャムにまず墓地を手に入れているのです。ノルマンディ上陸大作戦などで激戦に参加して、死を覚悟したのかもしれません。46歳の時に第二次世界大戦が終わり、3番目の妻と離婚。戦時中に知り合ったタイム誌のロンドン駐在記者メアリー・ウェルシュと4度目の結婚をしました。
ケチャムには公共の交通はほとんどないので、その日、タクシーをチャーターして、彼が最後に住んでいた山荘や彼が埋葬されている墓など、タクシーの運転手の案内で探しまわりました。

彼が最後に住んでいた家は、60歳の時に手に入れたとのこと。もっと森の中かと想像していたら、眼下に川を見下ろす高台にあって、庭は芝生が敷き詰められていました。「たぶん彼の家だと思うけど」、とタクシー運転手に言われて、敷地内に入り、そーっと建物をのぞかせてもらうと、バルコニーが懐かしい緑色をしていたのです。そのベランダを見て、私は「間違いない!ここだ」、と確信しました。というのも、まだ若く才気にあふれ、華々しい頃にヘミングウェイが住んでいたフロリダ半島の突端の島、キーウェストの彼の家もコロニアル風で、ベランダは同じく、モスグリーンの色をしていたのですから。彼の好きな色なのでしょう。

ケチャムの村の中心にクリスチーナというレストランがあります。私が行った日は残念ながら閉まっていました。が、この店の南西のコーナーのテーブルが彼のお気に入りの場所だったそうです。彼はこのテーブルで1961年7月1日の夜、いつものように4番目の妻メアリーと夕食を共にしたそうです。そして、翌7月2日早朝、山荘の玄関前で愛用の猟銃で自らの命を絶ちました。

7月はじめの一週間は、実はヘミングウェイにとって特別な週でした。北スペインのパンプローナで、毎年、町中を若者と牛の群が駆け抜ける牛追い祭、サンフェルミン祭が開催され、この祭の熱狂ぶりに魅せられて、彼は生前何度も通い詰め、作品を発表してきたのです。
1961年7月6日パンプローナの牛追い祭がフィナーレを迎える頃、アメリカ、アイダホ州の山間、小さなケチャムという村の墓地に埋葬されたことになります。まさに、人生は移動祝祭日でありたい!と願った彼らしい終焉と言えるのでしょう。




空港に泊めてもらった話


女性の地球ひとり旅をすすめて、旅のガイドブックを書いていた、20代から30代の頃、読者へは、「明るいうちにその町に着いて、暗くなる前に宿に落ち着きましょう。やむ終えず夜遅く着く場合は、少々予算オーバーでも、一ランク上のホテルを日本から予約するのが無難」、とアドバイスしていました。が、よりにもよって、その私が、空港に泊めてもらうことになったお話です。

その日、ロンドンのヒースロー空港で日本に帰国するツアー参加者たちを見送り、私は1時間後の飛行機でアムステルダムへ飛ぶことにしていました。アムスから翌夕、アメリカのミネアポリスまで飛ぶ乗り換えのためです。1週間だけアメリカをひとり旅して、アメリカの空気を吸いたかったのです。実はその夜のアムステルダムの宿は予約していませんでした。自分1人ぐらいはどうにでもなるという、ガイドブックの取材時代の油断があったと思います。

スキポール空港でオランダへの入国審査を終えて空港の外に出たのは午後10時をまわっていました。その足で空港構内にある航空会社の窓口に行くと、アムスのホテルは予約してもらえるはずでした。ところが、カウンターで何人かの人とのやりとりに耳を傾けると、今夜、宿があいているのはユトレヒトだけ、と聞こえるではありませんか。その日アムスでは国際会議が開かれており、空室はひとつもないのだとか。

ユトレヒトは鉄道で西へ20分ほど。ストリートオルガン博物館があり、何度か行って知っています。ユトレヒトでもしかたないか、と思ったのもつかのま、悪いことは重なるもの。その日、あいにくユトレヒトへ向かう鉄道がストで動いていませんでした。タクシーに乗れば片道1万円以上はかかるし、夜のタクシーは危険です。また、明日の午後には空港に戻っていなければなりませんし、困った!野宿するしかないか。

しかし空港の外はあまり雰囲気がよくありません。もう一度、宿を紹介カウンターにもどり、ドミトリーの一のベッドもあいていないのか、と確認すると、気の毒そうに首を横にふるばかり。なんとか方法はないの? と尋ねたら、かわいそうに思ったのか、「トランジットルームで眠れば?」とつぶやきました。「ムムムム! トランジットルームって空港の中の?」と尋ねると、そうだとうなずきます。「しかし、どうやって?」と尋ねた私に、いとも簡単に、「もと来た道を戻れば!毛布は中のカウンターで頼めば渡してくれるわ」と。「え、まさか!そんなことできるはずないじゃないの」。パスポートコントロールを抜けて、税関の荷物引き取りを終えて、外に出たのですから。常識ではできると誰も思わないでしょう。が、その可能性を試してみる道しか私には残されていませんでした。

ダメでもともとです。わずかな可能性に賭けて、税関の荷物検査を終えた人が出てくる、開き戸があいたときを見はからって、審査場の中に入りました。なにも悪いことをしているわけではありませんから堂々と。立っている税関の係官に声をかけました。人の流れに逆行するのですから、了解を得ておかないと。「今夜眠るところがないので、トランジットルームで眠りたい!」というと、彼は案外簡単に「行け!」と言ってくれました。荷物のターンテーブルを左手に見ながら、先ほど歩いてきた通路を逆行します。そして右前方の入国審査所へ。通称パスポートコントロールです。逆行してきた私を見つけて若い係官が近寄ってきました。「ハーイ!ホテルがいっぱいなので、今夜はトランジットルームで眠りたいの」。係官は私をそこに残して詰め所に戻り、年輩の係官を伴って出てきました。私の姿を見て、気の毒に思ったのか、年輩の係官は英国からの搭乗券を見て、すぐ「エスカレーターで上がって行け!」と言ってくれました。

というわけで、15分もしないうちにトランジットルームに舞い戻ることができたのです。空港のトランジットルームは、広々としていました。世界中からの飛行機が着く度に人がたくさん行き交いにぎやかでした。そしてなによりも安全でしたし暖かった! トランジットルームの椅子は、みな3つの椅子に肘掛けがついていました。私のように宿がなくて一晩ここで夜明かしした人が過去にいたとしたら、きっと肘かけのない椅子を探したはずです。私は荷物を引っ張って歩いてみました。すると、ありましたありました。3つの椅子の間の肘掛けが壊れているのを見つけたのです。そこは人の流れの脇の、安全そうな場所でした。

私はさっそく貴重品を枕に、持参した携帯レインコートをかけて横になることにしました。ぐっすりとはいかないけれど、外よりは遙かに快適でした。しばらく仮眠して窓の外が明るくなり始めた頃起き出し、空港内のホテルへ向かいシャワーを浴びました。これで、さっぱり。空港泊もまんざら悪くないな。だって宿代は無料でしたもの。それにしても、入国審査手続きCIQを、まさか逆戻りができるとは!

そんな意味で、オランダのスキポール空港は、人にやさしい空港だと心に刻んだのです。




トラベルデザイナーの仕事


トラベルデザイナーとはどんな仕事をするのですか?よく尋ねられます。
最近、飛行機、鉄道、バスなどを使う63日間の世界一周ツアーを企画しました。まず、直径30センチほどの愛用の地球儀をクルクルまわして、ツアーのだいたいのコースと日数をラフにデザインします。

20代後半の頃、私は女性向き雑誌の記事を書いたり、ガイドブックの出版制作の仕事をしていたので、年間3分の1は、地球を取材でまわっていました。いただいた原稿料をすべて、次の旅につぎ込んでは出かけ、旅経験をがむしゃらに積んでいた時代と言えます。今、地球儀をまわすと、そのころ経験した旅で、見つけた地球上の気に入った場所が、ふつふつと浮かんできます。

30代に、ウーマンズトラベルという小さな旅行会社を開きました。そこで、旅行業界の本音の部分を学びましたが3年間で廃業。そうしたのは、旅行業のすべてをこなしていくと、旅人が旅先で本当にやってみたいことを盛り込んだツアーを企画するのにエネルギーが残せないと思ったのです。世の中には優秀な旅行会社がたくさんあるのですから、ツアー実施はそちらにお願いし、ツアーをよりよく作る立場に徹することにしました。

前出の世界一周ツアーは、高額旅行を得意とする新聞系の旅行会社の門をたたきました。と同時に、八重洲北口にある旅の図書館、観光文化資料館に朝から夕方まで丸5日間つめて、過去に出たムックや新聞記事などから、めぼしい記事をすべて洗いました。朝市、祭、日ノ出、日の入り、景色の良いところ、水に触れるところ、映画の舞台、小説家の人生、画家の人生など、ツアーの縦糸と横糸をどうするかを考えました。

旅行業界では、いくらいい企画を練っても、集客できなければ評価されません。集客能力が3分の2と絶大です。パンフレット化すること、ツアーに同行すること、全員無事帰国させ、アンケート調査の結果、顧客満足度を得られて、残りの3分の1が達成されます。今回は、存分に超高級ホテル宿泊を盛り込み、小説や映画の舞台のホテルも入れて、一等寝台列車やノーマル航空券のビジネスクラスを使ったので、ツアーの代金はべらぼうに。

パンフレット化する直前の段階で、経営陣も加わり、会議は3時間にも及びました。なぜ、フロリダ半島突端の島キーウエストに3泊し、アメリカの大都会ニューヨークに2泊しかしないのか。パリに2泊だけで、なぜヴェルサイユに2泊もするのか。カプリ島に2泊する価値があるのか。スイスの温泉バートラガッツに3泊して、参加者は退屈しないか、などなど6対1でカンカンガクガク。

私も負けてはいません。歩ける規模の海辺の町や、魅力あふれる小さな町で連泊することが、極上の旅の第一歩であること。ローマやパリ、ニユーヨークには行き尽くした人が参加してくるにちがいないこと。大都市へは、滞在型の別のツアーでまた訪れれば良いこと。ローマの朝食前の散歩は、昨年のツアーで大好評だったこと。アルプスの少女のお話に出てくるバートラガッツ温泉につかり、のんびりする1日は至福の時になること。ヴエルサイユに連泊はゴージャスである。朝もやけむる宮殿の庭をジョギングしたり、ルイ王朝の人々の吸った空気を同じように吸うことに意味がある。ヴェルサイユからパリに通い観光することは、馬車の音をとどろかせて通ったあの時代の距離感を味わうのに意味がある、など。
こうして、「悔いなき人生、とっておきの地球大紀行」は商品化の運びになりました。
チャレンジ&トライ、この繰り返しがトラベルデザイナーの仕事だと思っています。



方向音痴の人が地球ひとり旅を楽しむ


先日、50代の専業主婦の方から相談を受けました。地球ひとり旅がしたいけれど、方向音痴だから、町歩きがとても怖い。今までツアーでしか出かけたことがない。が、ツアーはもう飽きた。子供も育ち上がり、余暇に夫は自分だけの世界を楽しんでいるし、自分も若いときからの希望、なんとか地球ひとり旅にチャレンジできないものか。

なつかしいなー。私も20代の頃、50代の母を連れてメキシコのユカタン半島のメリダという町に滞在したとき、夏の炎天下、まったく反対方向へ2キロも歩いてしまい、暑くて暑くて、母共々くたくたに消耗したことがあります。あのとき、その町の人々は昼寝の時間で、炎天下に道を歩いている人がいなかった。今考えると、民家をノックしてでも、土地の人に正しい道をできるだけ早く尋ねることが必要だったでしょう。

方向音痴は、ニューヨークの町中、地下鉄に乗って目的の駅に着き、ホームから改札口を通って、階段を上がり地上に出たときなどに、よく陥ります。地上に出ると、急に人混みと車の洪水、音、音、音。ひゃーどうしよう!。パニックになって、瞬間的な方向音痴になってしまいます。こういうときは、急ぐ旅ではないのですから、近くのベンチでも探してゆっくり座り、まず落ち着くとから始めましょう。

方向音痴の人の場合、楽しいはずの町歩きに重くのしかかってくるものは、道を間違えるにちがいないという確信にも似た、恐怖感だと思います。

旅に出かけると決めたら、まず、信頼のできる地図を1枚決め、旅先に持参しましょう。地図は、日本に店開きしている現地観光局、書店などで手に入れられます。地図を選ぶ視点は、日本語のではなくて、現地語で書かれた地図を探すこと。地図は細かい道まですべて書かれていて、はしょっていないこと。イラストマップは見るぶんには楽しいけれど、絵などを優先させているので、書かれるべき道がカットされていたり、表記が間違っていたり、一人歩きには向きません。また、日本語で書かれた地図は自分が読むのは楽ですが、現地で迷ったときに、現地の人に見せてもわかってもらえないから、道を教えてもらえません。もっとも、発展途上国に行くと、文字の読めない人もいるので、現地語の地図を現地の人に見せてもわかってもらえないときがあるのでびっくりしないこと。

いい地図が手に入ったら、それに透き通った10センチ四方ぐらいの市販されている片面粘着のペーパーを何枚も貼り、その上に、自分でわかるようにカラフルなマーカーと色のボールペンを使って、自分にとって必要な情報をどんどん書き込んでいきます。もちろん日本語で。それから、図書館などでガイドフックを読んだりするときも地図は持参して、その地図の上に、情報を書き込んでいくのです。危ない道を赤いマーカーて塗ったり、観光局の位置もチエックして、場合によってはアドレスなど書き込んでいく。その地図に自分が予約して泊まることにしているホテル、観光で訪れる場所、食べたいと思っているレストラン、などに印をつけられたら、しめたもの。その地図を使い込むことによって、現地到着後の不安感が減ることは間違いありません。

どんなに旅慣れている人だって知らない町を歩くのは不安いっぱいなのです。要はいかに、その町を前もって知っておくかにかかっています。滞在日程が限られている場合には、特に1日1日を効率よく歩くために、どういう道を歩くか滞在1日目の歩くコース、2日目の歩くコースなど色分けして前もって書き込んでしまうといいかもしれません。もし現地で気が変わったら、そのときは地図の上に貼った粘着ペーパーを取りあらためて、情報を書き込み、変更すればいいではありませんか。洋服仕立ての世界で言えば、仮縫いしておくということですね。

こうして使い込んだ地図を持参すれば、街角では落ち着いて地図をみることができます。このほかに、片言の現地語を覚えていって、土地っ子に質問する勇気を持つ。これに方向を示す磁石を携帯すれば、鬼に金棒だと思います。
初めての町を歩くときには、丸腰で出かけないで、町歩きを楽しむための、旅道具を揃えてチャレンジしてみましょう。



モンゴルでエクレアを盗られた!


大学生の娘が学生時代最後の地球ひとり旅にでかけるという。行き先はモンゴル。どういうルートで行くかを聞くと、ソウルまでの往復の航空券だけを買い、あとは現地調達。インチョン(仁川)から船で中国のテンシン(天津)まで渡り、北京に地上ルートで入る。何泊かして、国際列車でモンゴルへ向かうだそうだ。帰りは足の向くまま、北京経由で同じルートを戻るか、モンゴルから韓国に直行するかは現地に着いてから考えたいという。期間は1ヶ月。大丈夫か?ひとり旅で! ふりかえれば、学生時代パリへひとり旅したことがきっかけで、その後女性向きガイドブックをたくさん著し、女性たちに地球ひとり旅をすすめてきた私だが、自分の娘となると、話は別だ。いろいろ脅かしてみたが、娘はどうしても行くと意思が固かった。そこで、餞別代わりに、モンゴルのウランバートルからソウルまでの帰りの航空券を買い、持たせることにした。

それにしても、私が生まれて初めて大学四年の夏に経験したヨーロッパひとり旅は、ツアーの往復航空券だけを手に入れてパリを基点にスイスなどへひとり旅した。が、あのころはこれが大冒険だった。それに比べると、モンゴルひとり旅だなんて、21世紀を目前にして地球女ひとり旅の限界は大きく前進しているように思える。娘が出発して数日過ぎたある日、ローマ字でメールが飛び込んできた。ソウル市内のインターネットカフェからメールしてきたという。「明後日、船で仁川を出ます。仁川のホテルも船の切符も予約済みです。観光局の人がとても親切にしてくれました。元気ですから、心配しないで!」

第二信は北京からだった。ユースホステルに落ち着いたという。仁川からの船の中で日本人バックパッカーに出会って北京まで同行。また、バックパッカーの集まる宿でモンゴルで1年間仕事をしていた人と出会い、モンゴルのビザを取ったり、鉄道切符を買うのを助けてくれたという。出会った人の親切に支えられて娘の旅はモンゴルへ。
「モンゴルへの列車の旅は素晴らしく、特に同室のおばちゃんたちとの出会いが大きかったです。彼女たちはたくさんの服を中国から持ち帰ってモンゴルで売る商人のようでした。」ここまでのメールはローマ字で届いていたが、翌日からメールは日本語になった。モンゴルのインターネットカフェには日本語のツールが入っているのだ。

「昨日は列車で同室だったおばあちゃんの息子さんが一生懸命私の為にホテルを探し回ってくれました。私のバックパックを彼が背負って、ウランバートル市内を歩き回りました。彼は英語の出来る人で、仕事はテレビ局のプロデューサーをしている26歳の青年です。家庭も持っていて、すでに子どももいるんだ。すごく親日家で、お礼の言いようのないくらい良くしてもらって、すごく私としては感謝と同時に驚きでもある。とにかくモンゴル人は優しい。というより、人なつっこいかな。でも中国でも北京駅にいたら中国人のおっちゃんが話し掛けてきて、たばこくれて、筆談とかした。韓国でもホテルの兄ちゃんによくしてもらった。そういう意味では、日本という国や日本人は冷たいかも、と思いました」

私もメールを打った。「いい思いができるのは、あなたが謙虚な姿勢で素手でその国に入っているからだと思います。ほんとうにおめでとう。お金を盗まれないようにね。特にドミトリーでは心配です。ママの大好きなモンゴルにあなたが立っていることをとても誇りに思います。存分に現地の人の中に入って行きなさい。そして、馬乳酒を味わったり、馬に乗せてもらったり、遊牧民の人のゲルにホームステイできるといいね」

娘からの返信は意外な展開だった。 「ところで、私、おととい、初めて物取りに遭いました。びっくりです。私としてはかなりショックだった。ここまで書くとちょっと驚くでしょうけど、とられたものはなんと食べかけの「エクレア」で・・・。ウランバートルのデパートの前で座って食べていたら後ろから・・・。たかがエクレアだけど、私としては悔しかった。しかも取ったやつは、幼い少年。彼らはおそらくマンホールチルドレンとよばれる、寒い時期は暖かいマンホールに住んでいる孤児達だったと思います。私の食べかけのエクレアはあっというまに取られ、街角にいたたくさんの子供たちの口に分けられ入ってしまったのです。まあ、パスポートや、カバンじゃなかったから良かったけれど、どうも、こんなのは序の口らしくて、いい奴もいれば悪い奴もいるんだと、モンゴルのイメージがここで少し揺らいだと同時に、現実を見たような気がしました。

しかし、私は落ち込んだままはいやなので、そのショックをエネルギーにして、1泊2日、ウランバートルから車で8時間のところにある、カラコルムに行ってしまいました。で、突然遊牧民の人のゲルを訪ねて、指さし会話帳を使って頼んで、泊めてもらうことに成功しました。しかし、これがなかなか考えさせられる経験でした。というのは、本当は2泊するはずだったけれど、ゲルで私のために子供のベッドをあけてくれたの。すると子供は床に眠るはめに。そんな彼らの日常を見て、ちょっと怖じ気づいてしまって、自分が安易なツーリストの気持ちで入り込んでしまったのが、情けなくなって1泊で退散。最後のお別れするときなんか、かなり泣けてしまって困った。とにかく、モンゴルでは「ツーリスト」という立場を考えさせられました」

こうして娘は1ヶ月のひとり旅を終えて無事帰国した。パソコンを持たずに旅だったのに、ほぼ1日おきぐらいに旅先のインターネットカフェから旅の報告をメールで送ってきたことになる。21世紀を目前に、旅の分野でも、絵葉書か電話ぐらいしか連絡手段がなかった時代はいつのまにか去り、双方向の旅先通信の時代に入ったと言える。インターネットを使えば、地球の裏側へでも日本から、旅先アドバイスをリアルタイムに旅人に伝えることが、可能になってきたと言えよう。